いろいろな業務を行い、また日常的な生活の中からふと、思ったことを幾つか書き出してみたいと思います。 1998年からですからもう丸々19年通訳を行っていることになります。 そんな体験の中からほんの少し。 2017年6月30日記述 通訳は機械翻訳であるべきか? ある業務の時。 イタリア人がこういいました。 Sono pazzi. この話の流れとしては、業務開発部門について話をした後にこのセリフが出てきました。 英語に直すと They are crazy となります。 これをそのまま翻訳すれば 「彼らは(あの人たちは)狂っています」 ただ、ここでこの話者の意図としては決して開発部門の方々を貶めるつもりで話しているものではありません。 また冗談も含めて言っている訳です。 そして専門的知識がないとできない、開発者たちへの敬意も含めているわけです。 そしてその方々のマニアックな面を指してこのような台詞が出てきたのでしょう。 なので私の訳は 「あいつら、おかしい」 多分、お読みになられた方々もおわかりになられたでしょう。 プログラムなどの開発部門はもう、外部のものには全くわけのわからない、彼らなりの世界で創り上げていきます。 それは傍目からみると「なにがなんだかわからない、なんかヘンなことをなんか自分たちだけでわかるようにうにゃうにゅやっている」でしかありません。 で、その出来上がりについて自己満足としか思えないような会話を開発部門内で交わしているわけです、という「話者の頭の中」を読み取って「なぜそういうセリフをこの話者はしているのか」をわからないと訳ができないわけです。 そこに至るまでの一連の会話の流れから話者の意図を汲み取って訳しています。 「正確な一語一句間違えない翻訳」を望まれるお客様もいらっしゃいます。 でもそれでは通訳は生き延びていくことができるのでしょうか? これだけ例えばGOOGLE翻訳がかなり正しく既に訳してくれる世の中です。 一語一句間違えないように訳すのが良いのか、上記の例のように「その趣旨」を訳すのが良いのか、正しい回答はないのかもしれません。 しかし、私はこう思って常に訳しています。 「私は機械翻訳者であってはいけない」 だって私は人間ですもの。 言葉こそ違え、生まれ育ちこそ違え、私たちはお互い、人間です。 人間だからこそ、「感情を含めて訳すことができる」と考えています。 米国の入国審査官 米国入国審査官の依頼で日本人の私がイタリア語・英語のオフィシャル通訳を務めた話です。 2012年1月初め、遠路、米国において英語の技術通訳としての依頼を受けました。 フライトはミラノのマルペンサ空港からニューヨークに入るフライトで、ほぼ空きがない98%は満員という状況でした。 ただこの時、あいにくと私の席はエコノミー席の一番最後の列から3番目、というほとんど飛行機から降りるにも一番最後、という状況でした。 つまりおよそ200人はいる乗客の中で一番終わりの方だった訳です。 よって米国の入国審査(パスポート・コントロール)の列に並んだ時にはすでに長蛇の列であり、私の番になるまで1時間10分ほどかかりました。 しかし私の担当となった若い女性審査官はとても厳しい人で、私の前の親子(航空会社の職員が付き添っていました)も10分以上も停められているという状況でした(米国の審査は各審査官の前に5-6人ずつが行列を作らされて待たされます)。 そしてやっと私の番になりました。 入国審査官にいろいろと訊かれるのですが、この女性の審査官、まず私に「コンニチハ、 Can I say so at this time?」と言います。 "Are you Japanese?"とも。 おそらく「イタリアから来た日本人」という、どう考えてもちょっと異色だったので怪しいと思ったのかもしれません。 そう考えて私も「そうですよね、本当の日本人か確認する必要がありますものね」と応えます。 審査官は偽造パスポートを使った他国東洋人、と考えたのかもしれません。 そこで当方から"Konnichiwa is Ok" の回答から始めて審査官の質問(訪米の目的、等)に回答していきます。 途中で審査官から「ではイタリア語も話せるのね?」と言われたので少しざっとイタリア語で回答していますと(この審査官はイタリア語がわからないということは承諾済み、当方の身分を確認するためだろうと判断)いきなり隣のボックスにいた別の男性審査官がこちらを見ながら"Is there Italian transrater?" といってきました。 どうもこの男性審査官が審査中のイタリア人の入国希望者たちが英語をよく理解できない状況であり、また審査に関してこのイタリア人たちにどうも不可解なところがあり、という状況のようです。 するといきなり、この私を審査していた途中の女性審査官が"Hiroshi, go on!" と、いきなり日本人の私に「イタリア語と英語の通訳をしろ」と。 傍目からみたら非常に怪しいというか、異様な光景だったと思います。 どこからどうみても100%日本人の私が若いイタリア人カップルのために「イタリア語と英語の通訳」を、米国入国の審査のため、というおそろしくシビアーな状況の中でオフィシャルに通訳をしているのですから。 もちろん、これは米国の審査官からの要請ですが、列を作って待っている人たちにとっては「なんでこの日本人が???」という状態だったと思います。 当然のことながらこれは私の担当となった審査官が私を信用してくれたからこそ、なのだと思いますが、ちょっとあり得ない状況です。 この停められていたのは若いイタリア人カップルで、彼らの入国審査官は「なぜこの者たちは何度もエジプトに行っているのか?」という質問でした。 確かにアラブのこととかエジプトの騒乱などがありますので審査官の質問はもっともです。 この質問の趣旨を瞬時に理解してきちんとイタリア人にわかるように説明しないといけません。 当方は通訳を本業にしておりますので審査官とイタリア人たちの両方がきちんと納得いくように中立的に訳さなくてはいけませんし短い通訳のことばの中にこの若いイタリア人たちに「なぜこのような質問を審査官がしているのか」を理解させる必要もあります。 回答ひとつ間違えると今度は延々と質問攻めに遭うのですから(私の行列にいた親子のように)。 イタリア人の回答は「ヴァカンスのため」でした。 私から審査官に事情を説明します。 「イタリアからエジプトはとても近く、また安いので観光地として人気があること」という説明をいたしました(イタリア人のヴァカンスのため、という一言から、イタリアでの状況をご存じない審査官に理解できるようにきちんと説明します)。 すると今度は審査官から「ヴァカンスにいって何をするのか」 イタリア人の回答は「レジデンスでのんびりするの」 私から「それって日光浴をしたりとか?」と尋ねると「そうです」との回答です。 入国審査官に「イタリアではパッケージのホリディがとてもポピュラーで人気があります。 レジデンスに泊まってのんびりしたり日光浴などをするそうです」 この際にこの「イタリアではパッケージのホリディがとてもポピュラーで人気があります」をつけるかどうか、は通訳者次第でしょう。 今回は正式な仕事ではありませんので私には責任はかかりません。 しかし折角イタリアから遠路やってきた若いカップルが国外退去になったら本当にかわいそうです(今回のこの旅行も彼らのお給料ではかなりの金額となる支払いだったのでしょう)。 この際、カップルのいうことをきちんときいてその言葉を「わかりやすく理解できるように(他の国の状況などは米国の審査官にとっては全く知らないことなのですから)」して、なおかつ中立的な立場からの通訳をする必要があると考えて以上のように通訳を行いました。 決して「いっていることのみ」を訳す、のが通訳ではないとこの場合は判断したものです。 一般的には「言っていることのみ」として当方も通訳を行いますが、例えば日本からこられたお客さまはイタリアの商習慣などについては全くご存じありません。 よって「言っていることのみ」ではご理解いただけないことも多々あるため、今回のように必要に応じて追加説明をすることもよくあります。 つまり「そういうことをなぜ話しているのか」を瞬時に理解し、それを先方にきちんと先方が理解できるように通訳するためには、「訳したことば」に肉付けするためのさまざまな知識が通訳には求められるのであり、そのためにはありとあらゆることについて知識として知っておく必要があります。 「言っていることを訳すだけ」ならばきょうび、コンピューター通訳と変わらないのです。 審査官は「のんびりするだけ?」と怪訝そうです。 彼にしてみれば、ヴァカンスとは「あちこち観光地を見て廻る」のかもしれませんので私は「のんびりと骨やすみをするのがイタリア式で一般的なヴァカンスの過ごし方なのです」と説明したところ理解してくださいました。 イタリア人のカップルは「紅海にもよくヴァカンスに行きます」とも言っておりましたのでその旨も審査官に伝え、「パスポートをチェックしてみてください、彼らのいうようにイタリアの近くによくヴァカンスにいった履歴があると思います。 怪しいところはないはずです」と当方から伝えたところ審査官から「わかった、Thank you!」で終わりましたのでさきほどの私の審査中の審査官のところに戻りますと「もう行ってもいい」と言ってパスポートを渡してきます。 私の審査自体は他の人と異なり、あっけないものだったのでした。 今回は1時間も待ちましたがまさか、米国の入国審査のためのイタリア語の通訳をさせられることになるとは・・・ 一生に一度あるかの体験でした。 それにしても昔、イギリスのロンドンの現地企業で働いておりました際には沢山こられたイタリア人のクライアントのためにイタリア語の通訳をひんぱんにさせられておりました。 その際もクライアントのイタリア人は最初、「なんで日本人が???」という顔だったのが最後には笑顔で握手までされて挨拶をされていくこともよくありましたので、今回は私にとって決して初めてのことではなかったのですがそれにしても今回は場所が場所、相手が相手だけに、傍目からみたらかなりおかしな状況だったのでしょうね。 とても貴重な体験でした。 語学力 ある、日本人の「イタリア語・日本語通訳者」の方と話をしていた時の事です。 彼女は私に向かってはっきりとこう言われました。 「無きに等しい」とは「無い」と同じ意味です。 それを聞いて絶句した私。 実は私は小学生・中学生通してずっと「本の虫」と呼ばれるほど本が大好きで(漫画は一切、読みませんでしたが)国語の成績だけはなぜかいつも良かったものでした。 その頃のさまざまの本の知識が今、この仕事をするのにとても役立っている、とつくづく思います。 語学力って大事です。 確かに「無い」「等しい」なのだから「無きに等しい」とは「無い」と思ったのはわからないものでもありません。 しかしこのような日本語力をもってして「通訳しています」とはどうかな、と思った、というのが偽ざる本心です。 ああ言っています、こう言っています いろいろな方がいらっしゃるのですからそれぞれの方のスタンスというものがあり、それを否定するという意味ではありません。 ある日本人のイタリア語通訳の方と同行した時の話です。 その方はとても素晴らしい学歴をお持ちでした。 そして通訳されていらっしゃいました。 「こういっています」「ああいっています」「こういっています」「ああいっています」 だんだん話が膠着状態になってきてしまいました。 これは最初の話に近いものがあります。 その方は一語一句間違えないように、すべてメモを取られてそのメモを見ながら「話されて」いました。 「訳されていた」というよりは「取ったメモを読み上げていた」という印象です。 その方は厳密に一語一句間違えないようにされていたのでしょう。 でも話はどんどん険悪な方向に向かっています。 大変失礼とは思いつつ、途中で私は確認を取りました。 「今のご質問の趣旨はこういう理由によるこういう内容であり、だからこういう質問をされた、という理解でよろしいでしょうか?」 日本の方々はその通りです、と言われました。 そこで私はイタリア側に「実は日本ではこういう習慣があってこういうときにはこうなるのでだからこういう質問をさせていただいた、ということなんです。 決してこれこれの理由に基づいて御社を困らせるため、というわけではないのです、ご理解いただけたら嬉しいのですが」 で、あっさりと解決。 そこに至るまでもうひとりの通訳さんが20分かけていたことを私は2分で終わらせました。 と書くと自慢に見えますが、その方の学歴はそれはそれはとても素晴らしいものです。 語彙なんて私が足元に及ばないような、人生で一回も聞いたことのないような単語も知っていらっしゃいます。 でもその時、私は思いました。 通訳の業務ってなんだろう。 こうやって一語一句正確に翻訳するのが良いのか、それとも(お互いが知らない)バックグラウンドを必要に応じてイタリア側、日本側、に説明をし、だからこうなんです、と話すとお互い人間なんだから分かり合えるのではないのだろうか。 私のように通訳として一語一句厳密に訳さず、その話者の趣旨を伝える通訳者は少ないのかもしれません。 では次のような場合はどうでしょうか? CIAO! ある業務の最後。 イタリア側から「チャオ!」と日本の方々に対して挨拶がありました。 日本の方々が去られる、多分、二度ともうお互いが会うことはない場面です。 そこに至るまでほんとうにいろいろとありました。 そして最後に 「チャオ!」 でした。 私も年食ったせいでしょうかね。 なんだか涙っぽくなって。 チャオ、は親しい方にする挨拶です。 日本語では「やあ」や「どうも」「じゃあねえ」などに相当すると思ってください。 普通、ビジネスの最後の最後の締めで 「じゃあねん」 とは絶対に言わない。 イタリアから「チャオ!」と出てきたのはもう、お互いを信頼しきって「昔からの知り合い、友達」というニュアンスが含まれている、ということになります。 正確な日本語に訳すのであれば「「じゃあー」と言っています」 でもそんなことをしたら全てがこれでぶち壊し、とおわかりになられますでしょう? では、私はどう訳したか。 なぜ彼らは「チャオ」と言ったのか、その心理を含めて日本の皆さんにお伝えさせていただきました。 どういう「言葉を選んだのか」はここには書きません。 でも繰り返しますがお互い、人間です。 日本の方々(それなりの立場の方々でした)は本当に心からぜひとも日本に来てください、とイタリア側に伝えられました。 イタリア側が日本に行かれることがないのはわかっていても人間としての心からの言葉だったのでしょうね。 全ての体験で無駄なものはない いろいろと通訳をするにあたり、あくまで私は技術専門系統に特化して業務をお受けいたしております。 ただ、本当につくづくと思うのは「通訳者というのは沢山、いろいろな体験をすればすればするほど通訳としてスムースに訳すことができるのではないのか」です。 どんな体験、どんな知識も無駄にはならない、あの時やっていた体験が、あの時のたまたまの体験がまたどこかで役にたつ、本当にそうとしか思えません。 それがいつ、なんなのか、それはわかりません。 たまたま日本の古本屋で手塚治虫氏のブラックジャックを見つけました。 安かったので買いました。 話は正直、読んだことはなく、数冊買ってみて気に入りました。 その後、全巻揃えて購入して遠路はるばるイタリアまで、重い思いをしながら持ってきました。 それからしばらくして。 医療関係の業務が廻ってきました時には本当にびっくりこきました。 確かにブラックジャックは漫画です。 それも随分と前の漫画です。 今とは背景や技術や、いろいろな面が異なります。 しかしいろいろと学ぶことが多く、とても参考になりました。 その時、本当に私は後から思いました。 「この世の中、どこでどう繋がっているか、わからないもんだなあ」 以前、私はいろいろと調べて、自分で直せる範囲の自家用車や自動二輪の故障などは自分で直していました。 その時の体験や経験、メカニックからの言葉、などが後に自動車関連の通訳を行う時に大きな糧となったり致しました。 自分で車をいじれるだけの知識と技術をもったイタリア語通訳って他にいると思われますか? ぶっつけ本番 通訳の仕事にはいろいろな種類があります。 前以て基本的な資料を下さるクライアントもありますが実際の現場に赴いてみますとそのいただいた資料を実際には使用しないケースも多々あったりし、たいていほとんどはぶっつけ本番です。 通訳の仕事をしていて感じるのは「いかに場数を踏んだのか」が通訳としての基本、だということです。 例えば以前同様のケースがあった場合にはその時の経験・知識・単語、が今回も生きたりします。 「あの時使った知識が今回とても役だった」ということは本当に数知れずあります。 人生は本当に何事も経験だと痛切に感じます。 なので通訳に一番必要なものは? ともし私が尋ねられたら、真っ先に「経験(どれだけの場数を踏んできたのか、どのような仕事をこなしてきたのか)」だと応えるでしょう。 上記のように実際に現場に赴いてみないことにはどのような状況、どのような案件、ということは全くわからないため、先方で即座に状況を把握し、自分の知識をフル活用して対応するしかありません。 クライアントに質問できるケースもありますが、ほとんどの場合には現地に着いたら既にクライアントがスタンバイしており、質問する時間もないままに、状況もよく把握できない状態のまま、通訳を開始する、ということが多いのです。 本当にぶっつけ本番です。 ただこのような状況でも自分のベストを尽くすしかない訳です。 下調べしておいてもほとんどが上記のように当日、役に立たなかったりしますので結局はなんとか自分で現場で切り開いていくしかない、というのが通訳の業務だったりするのです。 同時通訳 随分と昔、日本に住んでいた、まだ子供の頃、テレビで日本語から英語へと同時通訳をしているアメリカ人の生放送の映像を見たことがありました。 同時通訳者はお二人いました。 なんでお二人なんだろう、と思ったのと単純に「すごいなー」とその時には思いました。 時が移り、場所も変わってイタリアで。 まさか自分がそのような仕事をすることになるとは思ってもみませんでした。 それもかなりの大御所のお仕事ばかり幾つも。 同時通訳について簡単に説明致しますと、同時通訳には「話者(実際に話をしている人)」を見える環境でないと同時通訳はできない、という鉄則があります。 これは説明のしようがないのですが、相手の表情、体の動き、身振り手振り、視線、などを全て見てその方の頭の中に入り込まないと同時通訳はできない、からです。 詳細は割愛致しますがよって、実際の同時通訳の場合には通訳者は「キャビン」と呼ばれるボックス(たいていは話者の視線先に備え付けられている)内においてヘッドフォンをして話者の話が直接聞こえるような状態で通訳を行います。 若しくは話者が眼前に確認できるような大きなモニターが設置された別室において通訳を行います。 顔を見る事ができなければ同時通訳はできないのか、と言われたら「無理でしょうね」としかお答えできません。 これは上記しましたように話者の頭中に入り込む必要があるから、です。 話者と一体になって通訳をしていく必要があり、どうしても話者を見ないとできない、という状態です。 なので話者の側方(たまにありますが、入ってくる情報が限られており、とても少ないので本当に大変)や後方からの視認では同時通訳はできません。 またこのような特殊な能力のために非常に精神の集中が必要であり、同時通訳の場合には基本的には一人で15-20分程度担当し、もう一人の通訳者にバトンタッチして交代する、ということを繰り返す、が一般的です(当方は一人で8時間を数日間こなしたこともありますが流石にその時には、各日夜はバテておりました)。 なぜそんな短時間なのか? これは上記のようにかなり精神を集中しないとできない作業のため、途中でどうしても頭の中が真っ白になってきてしまうためです。 私の場合はよって「水冷エンジン」と勝手に自分の頭を名付けておりますが同時通訳中に飲む水の量が半端ではありません(30分で1リットルとか)。 どうしても頭が使われるのでその分、冷却用に水分を必要としている?のかもしれませんね。 何事にもこの世の中には「絶対なる正解」はないのかもしれません。 また100人が100人、ご満足いただく、ということはできないのかもしれません。 ただ、とても幸いなことにとても多くのお客様が当方にリピートとして、再度お仕事を下さいます。 もちろん、その中にはとても重要な案件や高額な案件もかなり含まれます。 そのようなお客様から「またお願いします」とのご連絡をいただきました時、本当にこの仕事をしていて良かった、みなさんのお役に立ててよかった、と心から思います。 ただ、人生一生勉強だと思っています。 これからもずっと精進していかなくてはいけないな、といつも思う次第です。 |